私の子供智昭は、平成6年3月県立姫路養護学校高等部を卒業し、現在地域の中のあるおしぼり会社
「ハクロ商会」に勤めていますが、決して軽度の障害ではありません。療育手帳A判定、字の読み書きも
できません。自分の名前だけ書くのが精一杯です。数も分からず、金銭感覚も全くなく給料日には、千円
札、五千円、一万円札を一緒に数えては、「いっぱいあるとある」と喜んでいます。
健常児さえ就職が困難な今日、どうして重度の子供が就職出来たかと不思議に思われる事でしょう。
少し振り返ってお話しさせていただきます。
昭和51年1月7日、我が家にも待望の男の子が生まれました。喜びもつかの間、ダウン症と診断され、
5年間家の中ばかりで過ごしました。ふとした事から、ご近所にお住いの1才年上になる同じダウン症を
お持ちのお母さんと知り合い、それからと言うもの、通園施設「つくし園」に1年6ケ月、姫路養護学校小
学部から高等部を卒業するまでの12年間の教育期間は恵まれた環境の中で何不自由なく過ごしてきま
した。
卒業の進路等考えたことなく「行く所がありませんょ」毎年言われながら、どこかに収まっている状況を目
の当たりにして、当然通所授産施設か通所更生施設にお世話になればいいと軽い考え方をしていました。
高等部2年生の一学期には、初めての現場体験実習が実施され、就職を目指しておられる通所授産施
設にお世話になりました。

一週間の体験実習の評価には、「 全く仕事にならなかった 」と記されてありました。その時肩のの力が
抜けていくのを今でも覚えています。期末懇談を控え二学期の現場体験実習先も決めなければなりません、
相談がてらに市福祉課を訪れました。担当の職員の方は「施設はありませんよ、期待しないで下さい」と言
われたのですがそばにおられた係長さんが 「施設ばかりに目を向けないで外に目を向けられてはどうでし
ようか」との助言をいただいたのです。
この一言が私の智昭に対する進路を施設から企業へと大きく変えていったのです。でも甘くはありません、
懇談会の席、次回実習先は毎年現場体験実習の場として、また卒業後の雇用の場としてお世話になって
いるおしぼり会社「 はくろ商会 」さんに行かせて下さいと言うなり 「 無理です 」 ・・・
前回授産施設での実習では仕事にならなかったとの評価を受けながら、企業実習へと言った私の言葉に
先生の答えは当たり前だったのかも知れません。
夏休みを控え時間もなく無理を承知で、個人でお願いに行きました。家の近くでありながら仕事内容も全く
わからずに「 夏休み実習させて下さい 」とお願いしました所、快く引き受けてくださいました。
40日間の夏休み親子で汗を流した日々、そして私たち親子を温かく見守って下さった、社長さん、奥さん
従業員の方々には感謝の言葉もありませんでした。仕事の内容はビニール袋に入った製品のオシボリが
流れてきます。不良品がないかチエックし、きれいに並べて束にする迄の流れ作業の段階と、25個の束
になったオシボリを箱の中に16束( オシボリにして400個 )をいれ終わると、重さ20sの箱を順序よく積
み重ねていきますが、6段目には自分の背丈よりも高く積み上げて整理します。
それらをを午前と午後とに分けてするのですが、なかなか簡単に作業ができたわけではありません。理解
力も乏しく、動作が緩慢で随分時間もかかりましたが、毎日温かく見守り、時には厳しく、時には優しく包み
込み指導してくださった社長さんはじめ奥さんのお蔭で働く意欲も芽生えてきたのです。この夏休みの体験
が認められ、それ以後の実習はすべて「 はくろ商会 」さんにお世話になり就職へと結びつけることができ
ました。
この時ばかりは重度の子供でもやればできる言う確信と親が地域の中の扉を叩いて見る必要があると感じ
たのです。でも実際卒業後、毎日働くとなると不安だらけでした。
こんな声も聞こえてきたのです。「 5月の連休まで続くかなぁ・・・・実習と就職とは全然ちがうのやなぁ・・ 」
と心配してくださっているのか、反対を押し切って就労させた私への皮肉なのか、どちらとも言えない言葉が
返ってきたのも事実です。

けれども今も改めて就職、自立させていく為には行政、親、企業、学校なとが同じ方向に向かって努力して
いかなければならないなど、関係機関との連携の問題や就労に耐える体力づくりや根気、集中力が必要か
と思います。
そして就職できたからと言って喜んではおられません。絶えず企業と連携を保つことが大切か、その重要性
を痛感に感じとっています。
また、こんな事もありました。智昭が高等部3年生の秋、おもいもよらない事が振りかかってきたのです。
朝元気に出掛けたはずの主人が夕方には入院との事、もっとも恐れていた成人病の一つ心筋梗塞で倒れて
しまったのです。
幸いにして一命をとりとめましたが、二ヶ月間の入院生活のうち、親子でいろんな経験しました。
ある日、郊外学習に神戸の南京町に行ったのですが、帰宅時間になってもなかなか帰ってきません、捜すあ
てもなくひょっとするとという予感の元、病院に行きますと集中治療室にいる主人の横に座っているのです。
酸素吸入している主人の枕元にはまだ蒸していない中華饅頭をのおみやげを買ってきて 「 お父ちゃん、こ
れ食べて元気になりおいしいで 」といっているのです。
また、検査結果がおもわしくなく子供ども達の前では涙を見せまいと思っていたのですが、つい涙涙・・・
当時大学1年生の長女も私と同様泣き崩れてしまう姿に 「 お母ちゃん泣くな 」と力強く励ましてくれた時に
は、どんなにたくましく成長してくれたことかと思った事でしょう。

これまでの19年間道草もしました。まだまだ経験不足で飛び越えた部分もありますが、今地域の街の中で
多くの人達の支えにより、少しづつ働く意欲を示し働いて得たお金で毎週1回水泳、和太鼓にと余暇をエン
ジョイし、好きな物を買ったり貯金をするのも楽しみの一つとなっています。
そして、働くことにより友達関係の輪も広がりつつ生きる喜びを感じとっているようです。その智昭が来年
早々成人式を迎えます。大人の仲間入りとして、また社会人として自立していかなければなりません。
これからの永い人生いつどんな境遇に陥っても親から離れ、重度の子供でも地域社会のなかで生活しな
がら働くくことにより喜び、苦しみ、楽しみを見つけ自分の持っている力を充分に発揮し、生きがいをこ見
つけることが子供にとって素晴らしい生き方だと思っています。
4時間のケアがあり、何不自由なく生活できる入所施設ももちろん必要でしょうが、現在 「施設中心型 」
福祉から 「 地域福祉 」への方向に変えていったり、現行制度の改革、特に予算の流れを地域福祉に
変えていくこと等、いま一度見直していただけるよう行政機関にお願いし、一人でも多くの知的障碍者が
地域の中で普通の生活を続けていける「 場 」グループホーム・生活ホーム・通勤寮が地域のあちこち
にできるよう願っております。
みなさん、これらの問題は今後「 手をつなぐ育成会 」を通じ、私たち親に与えられた大きな課題ともいえ
るでしょう。
会員の皆さんと共に考えていきたいと思っています。
平成7年10月27日、姫路文化センターでの体験発表です。

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